御菓子司亀屋大和の歩み
現在で9代目という、長い歴史を持つ当店ですが、江戸という土地柄のため、二度の火事でほとんどのものが、 焼失してしまい、残念ながら、現在の店舗には古い資料等がほとんど残っておりません。
ですので、あまり詳しくはございませんが、現在知りうる亀屋大和の歴史についてご紹介したいと思います。
①御菓子司 亀屋大和とは?
亀屋大和の「大和」は、旧国名で、江戸時代に御用御菓子司であった可能性が高いそうです。
この旧国名は受領名(公家や大名などに与えられる正式な官位ではありません)で、宮中や大名からお墨付きを得た、 当時のブランドの証のようなものであったようです。
②江戸買物獨案内
当店が江戸時代に存在していた現存の資料として、「江戸買物獨案内」があります。
中川芳山堂によって出版された、江戸に不案内な人の為のガイドブックで、池波正太郎さんも、参照されていたそうです。
当時、当店は、本所で営業しており、本所緑町一丁目と元鳥越三筋町通の京御菓子所として紹介されています。
③東都流行 御菓子番付表
もう一つの資料として、御菓子司の番付表があります。
お客様がお持ちくださったもので、江戸時代のものと思われます。
④明暦の大火
江戸の町は、火事が多かった事で有名ですが、その中でも有名な「明暦の大火」で、当店も焼失しました。
当時の流行り歌で「亀屋だいじょ(大掾・・だいじょう)で焼け止まり」という歌があったと言われています。
⑤東京大空襲
その後、商売を立て直し、当時の本所から、5代目頃に現在の地に移ってきたと思われます。
6代目は、お寺に現在の住所が残っています。が、また、空襲により、焼失。
現在の八代目は、疎開していた事で、難を逃れました。
⑥6代目、7代目の時代
当時、土地の価格がひと坪で一俵だったことから、土地を切り売りして家族と店をを守ってきたそうです。
6代目、7代目の頃には、現在の東神田近辺にも、繊維問屋以外にも、多数の商店が立ち並び、当店も、 和菓子店の隣に甘味処も併設していました。
当時は木製の2階建てで、角地にあったことから、何度か車がガラス戸に衝突したそうです。
その時に、「御菓子司」のガラス戸の文字を「御菓子舗」と金箔職人が間違えられたようで、現在のガラス戸には、「御菓子舗」となっています。
⑦8代目
現在も現役の8代目が、木造の老朽化もあり、現在のビルに立て直しました。
それを機に、甘味処は閉店し、現在の和菓子店となりました。ですが、ガラス戸だけは、昔の戸をそのまま残しています。
奥の工場(こうば)で作って、すぐお店で販売する昔ながらのスタイルを守っています。